むかしむかしのお話らしい。
ある日のことである。
里人と思しき男が玄賓僧都の元にやってきた。
玄賓僧都は三諸山の麓に庵を構え、ひっそりと暮らしている高僧だ。
「庵主さま。庵主さま~!」
ややあって、庵からバタバタと玄賓が現れた。
「ちょ、軒先で大声を出しなさんなっ」
「あ、さーせん」
「それからその『庵主』というのはやめなされ。間違ってはいないがその呼び名は尼さんの意味合いが強い。わし、男。OK?」
「オッケイ! いや、そんなことよりあんじゅ……いや、玄賓さま。三輪の社の杉に、あなたさまの衣が引っかかってますよ」
「なんと」
玄賓は男と一緒に三輪の社に向かった。
神木の杉には、まだ衣が引っかかったままだった。
玄賓は神妙な面持ちで、衣を見上げていた。
「あれ、玄賓さま。衣の褄になんか落書きされてますよ」
「お主、字が読めるのか」
「いやだなぁ、今時の村男を舐めてもらっちゃこまりますよ……すみません。読めないです」
「あれは落書きではない。仏の教えを説く和歌だな。『三つの輪は、清く浄きぞ唐衣。くると思ふな。取ると思はじ』……つまりは施した者は“与えてやった”と思うな。施しを受けた者も過剰に“賜った”と思うな。三輪清浄または三輪空寂。施す者も、施しを受ける者も、そしてその施しの金や品、この三つはともに清浄であるべきだという意味の歌じゃ」
「へ~、誰が書いたんですかね。んなでもってなんであんなところに……」
「実はな……」
玄賓はある出来事を男に語り出した。
「ここのところ、毎日わしのところに樒と閼伽の水を持って訪れる女性がおったのじゃ」
「へ~、へへへ。玄賓様も隅におけないなぁ」
「コラ、わしはそんな生臭坊主じゃないぞ。まあ、姿格好はふつうの里の女の出で立ちじゃった、確かにさすがのわしも思わず見ほれてしまうほどの美しい女性じゃったが……コホン! と、とにかく閼伽水や樒は仏に供える物じゃ。どこかの供養の帰りにわしのところへ色々な話を聞きにやってきておったのじゃ」
「……どんな話です?」
「とりとめのない、というより難しい話じゃったのう。仏とはなにかとか、人間とはなんぞやとか……とにかく、それで、その女性が昨日も訪れて、秋も夜寒になったので上着を貸してほしいと言われてな。無論、衣をわしは貸して差し上げた」
「それがあの神木にかかっているやつですかい?」
「そうじゃ。かねがね不思議に思っておったわしは女性に住まいは何処かと問うたのじゃ」
「……やっぱ気があるんじゃ――」
「 だ ま れ 」
「さーせん」
「すると女性は『私は憂き年月を三輪の里にて住まう女です。私のことを何者かと怪しんでおられるなら、三諸の山の杉の木立にしるしを立てておくので明日いらしてください』と言って……」
そこまで言って玄賓は言葉を切った。
続きを話そうか迷っているような素振りをみて男は、「それから、どうなったんです?」
と、先を促した。
「……その場で、煙のように姿を消してしまったのじゃ」
「ふーん」
男は、驚きもしなければ「そんな馬鹿な」と笑い飛ばすようなこともしなかった。
ただ玄賓の言葉を軽く流した。
玄賓は少し気を悪くした。
「あ、信じておらんな」
「い、いや~。狐や狸に化かされる話はよく聞きますが、しかしまさか、大僧都のような偉いお坊さんでも、そういう目にあうんですなぁ。おっかないや」
「いや、実はわし大僧都は辞退してるから。そうでなきゃ山居を構えてのんびりひっそり暮らすなんてことできないから」
飄々とした男の物言いに呆れる玄賓だが、ふと真顔になった。
「それにわしの見立てでは、あの女性は狐や狸などではない……」
玄賓がそう呟いたのと、「わわわ」とあたふたした声を上げて、男が玄賓の背中に回り込んだのはほぼ同時だった。
「どうしたのじゃ」
玄賓が顔を上げると、杉の木陰に件の女性が現れて佇んでいた。
長絹(広袖の衣)と緋大口(袴)姿の出で立ち。
その顔は昨日見た顔と一緒だったが、着ている服も違うためか、今の女性には美しさや愛らしさよりも、気高さや神々しさを感じた。
なによりも、男の被り物である烏帽子を被っているのが不思議だった。
最初は巫女装束かと思ったが、これは――祝子姿の男装ではないか。
「玄賓」
思わず見とれてしまって、ジロジロと眺め回していた玄賓は女性の声でハッとした。
玄賓の背後にしがみつくように、男は縮こまって女性から身を隠している。
体が震えていないことから、怯えているのではないと玄賓は看破していた。
ならばなぜ女性から身を隠そうとするのか……。
とりあえず玄賓は男のことは無視することにした。
「あなたはどこのどなたです? どうか名前をおっしゃってください」
「わたくしは三輪の神」
さすがにこれには玄賓も驚いた。
「三輪の神とは……三輪明神、大神の大神さまであられると仰るのですか」
女性――三輪の神はそれには答えず、物憂げな顔をそっと伏せた。
三輪神は古くから三諸山に祀られている神で、様々な権能を持ち、時には大いに世を祟ったともいわれる、三輪の地においては古くから深く信仰されている神である。
しかも、出雲の大国主神と同一・同格とされる男神のはずだ。
その大和の神が坊主である自分のところへ、女の姿で毎日話をしに来ていたとなると……。
玄賓は正直、困惑してしまった。
「実はそなたに救ってほしいものがあるのです」
「救う? 誰をです」
「わたくしの罪をです」
「罪ですと? 神がいかなる罪を犯したというのです」
「わたくしは、衆生を救うために人の姿となってやってきました。しかし……人の姿をしているが故に、しばし迷える人間そのものの心を持ってしまうのです。その罪をそなたに救ってほしい……」
「……」
坊主であるなら人を救うのが仕事であるが、神となると……。
(まいったのう。帝に大僧都になれと言われた時以上の難儀な問題じゃ)
「玄賓、どうか……」
三輪神の顔を玄賓はじっと見つめた。
三輪の神の表情は人の世では見慣れたものだった。
迷い、苦しみ、悲しみ……。
なぜか時の帝に、病の快復祈願を懇願された時のことを玄賓は思いだしていた。
「……いえ、その罪科は人間のものなのです。故にあなたの罪でもあるし、そうでもないともいえる」
三輪神は怪訝な顔をした。
納得していないようだった。
「迷える人間の心を持っていらっしゃるのは、衆生済度の方便なのです」
「方便……」
「そうです。方便……仏の教えでいう『悟りへ近づく』つまり人々を救い、悟りへ近づかせるその途中、人の姿をしているからには人間としての迷いを持って当然なのです。それゆえ、その罪は簡単に消せるものではございません」
「なるほど……」
すっと目を閉じ、三輪神は語り出した。
「わたくしは、この姿で、人間の女として、とある男神と恋に落ち、妻どいの婚姻を結びました。最初の内は毎日、わたくしの元にその方はやって来ました。でも、いつの頃かその方はわたくしの元に来てはくださらなくなった……」
「……」
「それが辛くて、悲しくて……」
(まてよ、似たような似てないような話を何処かで聞いたことがあるぞ……そうだ)
玄賓はある妻問の神話を思い出していた。
その神話では三輪の神は男で、ある姫の元に毎夜通っていた。姫は愛しい男性がどこの誰かも知らない。それで帰る男の後を追って、三輪神の正体……蛇の体を見ててしまい、驚きのあまり息絶えてしまうという話だ。
(皮肉なもんじゃな……神話の時とは立場が完全に逆なわけだ。しかし、大和の神とは奇妙なものだ。男になったり蛇になったり、女になったり……)
「そなたの思う通りです。玄賓」
ぎくりと玄賓は身を竦ませた。
心を読まれるとは思わなかったのである。
三輪神はゆるりと木陰から離れ、神楽を舞い始めた。
すると、三輪神の体は光り輝き始めた。
「これは……」
――天の岩戸を引き立てて、神は跡なく入り給へば、常闇の世と早なりぬ。
三輪神が舞っている演目は、あまりにも有名な、天の岩戸神話だった。
(天照大神は、弟の所業に恥じ入り、悲しみとともに岩戸にお隠れになった……要するに今の自分も悲しく恥ずかしい気持ちで一杯だということだろうか。いや、わしにはわからん……)
玄賓は考えることを止め、ただただ、神の荘厳な舞に見入っていた。
やがて舞が終わるころ、三諸山に朝日が差してきた。
三輪神は岩戸に隠れるかの如く、夜明けとともに消えていった。
ふわりと杉の木立から衣が玄賓の足下に落ちる。
玄賓はしばらくの間、放心して立ちつくしていた。
そして、ふと気がつく。
後ろに隠れていたはずの男の姿が何処にもないのである。
――ありがとう玄賓。
――そなたに苦しみを打ち明けただけでも、あの方の沈んだお心、少しは晴れたと思う。
どこからともなく、男の声が玄賓の頭の中で響いた。
――神であろうと人の姿をしてしまえば、人の迷いを持ってしまう、か
得心を得たような声でそう呟く男に対して、玄賓は思わず苦笑した。
「ははぁ、さては件の男神……最初から私を引きあわせる算段だったのですな?」
――はっはっは。さーせん。
それっきり、男の声はしなくなった。
「やれやれ。えらい疲れたわい」
玄賓は衣を拾い上げると、庵へ帰ろうとした。
「まあ面白いものをみせてもらった。しかし誰かに話しても信じないだろうなぁ」
玄賓は、三諸の山をしげしげと見上げるのだった。
おしまい。
□
思へば伊勢と三輪の神
一体分身の御事今更何と岩倉や
能の『三輪』が原作……です。
一応小説というか昔話風のお話にアレンジしてみました。
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